先月、本間千枝子さんの「アメリカの食卓」という本を読み終えた。初版が1982年。同い年!とワクワクしながら読み始めたのだが、文章の中に度々出てくる難解な漢字や、英語の正しい発音をそのままカタカナ表記にした言葉の意味が分からず、片手に本、片手にスマホというスタイルで都度都度それらを検索していたので、読み終えるのに2ヶ月もかかってしまった。ただ、筆者が過ごしてこられた1950〜1970年代のアメリカが食をベースに鮮明に描かれており、その歴史や物語のように書かれたレシピなどで知識欲をフルに満たして頂いたので、読み終えた時はお腹いっぱい食べた後の心地よい脱力感に似たようなものに襲われていた。
そんな後に少しボーッとしつつマイ文庫から手に取ったのが中村安希さんの「愛と憎しみの豚」という本だった。読み始めていくうちに、食と宗教の歴史に溢れた本だということに気づき、「アメリカの食卓」を読んでいる時のデジャヴに襲われた。これまで、エッセイやノンフィクションを読み終えると次はがっつりフィクションの世界に浸りたくなっていたのだが、自然とこの本を選んだことで今自分にはこのことについて知ることが必要なんだろうなと感じながら読み進めている。
私にはこれまでから現在、信仰している宗教も、応援している政党もない。神様や仏様を心から信じるといったことはなく、幼少期から祖母の家にあった仏壇には手を合わせてお経を唱え、クリスマスにはジングルベルを歌い、ツリーを飾ってプレゼントを楽しみにするという生活を送ってきた。
信じている対象がいないということは、自分の身に何か起きた時、何かを始める時などには全て自分で決断しなくてはならないということ。自分で情報を収集し、考えた結果行動する。だから失敗することもあるし、後悔することもある。信じている対象があると、その教えのもとに行動が決められているから、迷いや後悔は少ないように感じる。選択の自由という面においては、この教えによって制限されているように見える部分もあって、その見えやすい部分が食なのではないかと思う。
神の教えによって制限されている食べ物の中には、その時代の土地の生活環境から食べない方が良いとされた根拠を持ったものもあればそうでないものもあり、どこまでその教えを守って生活するかは人によって大きく異なるが、自分の好き嫌いという基準だけで食べ物を選択してきた私としては、細かく知れば知るほど矛盾や不自由さを勝手に感じてしまうのである。ただ、信仰する人にとってはそれらの教えを守る上に幸せが成り立っているわけで、矛盾や不自由さはそれほど重要なことではないのだろう。相手の思う“幸せ”については知る必要があるが、自分の中の“幸せ”を相手に押し付けることはしてはならない。
明日は参議院選挙の投票日。自分の思い描く“幸せな社会”に少しでも近い考えを持つ人は誰なのか、そんな社会の実現に向けて行動してくれる政党はどこなのか、信仰のない私はあらゆる情報を収集し、考え、判断しようとしている。そんな中、重大な事件が起きた。ほとんどの人が銃を持たない日本における、選挙期間中の、元総理銃撃事件。銃撃。日本で。容疑者の動機を聞いて、それがもし全て本当で、自分の身に置き換えて想像するとあまりにも胸が痛くなるし、自分だっておかしくなっていたかもしれない。しかしなんにしても、このような一方的な暴力はだめだ。
政治的な思想の違いとか、そういった思いで犯行に及んだわけではないらしいが、今回はこのことによって通常のような選挙とは違った結果が出るかも知れない。なるべく自分自身の信じることをもう一度自覚して、なるべく冷静に判断し、行動していきたい。自分を信じて。
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