先日、スマホにたまっていた子どもたちの写真データをプリント会社に送って「写真」という形にしてもらった。全部で600枚を超えることが分かった時点で、本当に印刷する必要があるか?とためらいの気持ちが生まれたのだが、ここまできたら引き下がれないと言い聞かせ、最終のポチを終える。
娘の誕生した日の写真をそういや現像していないなと気づいた日からずっとやらなきゃと思っていたのだが、8年分のデータを遡ることが億劫で、手をつけずに過ごしていた。クラウドに保存してるから他の端末でも見れるし、家でなくてもどこでも見れる。ただふと感じたのが、“私がもしいなくなったら?”。ここ数年頻発する大規模災害。いつ家族がバラバラになってもおかしくはない。そうなった時には現像された写真も見れる状態ではないかも知れないが、私しか知らないパスワードで保護されたスマホよりは、可能性があるかも知れない。東日本大震災の津波で流された写真の返却会を思い起こして、印刷の手続きを始めた。
そもそも、私はデジタル機器にものすごく詳しいわけではなく、普通に使うことはできても、トラブル時は自分だけで対処できない。その上、紙の媒体がすごく好きで、小説や漫画は本という形で購入して初めて満たされる。デジタル機器に助けられながら生活しながらも、完全に信頼してはいない。今の時代に生まれた子どもたちとは違うなあと、ホッピングで遊んでばかりいた幼少期を振り返る。
今子どもたちの遊び道具は、全身を使うものよりも目と指を主に使うものの比重が大きくなってきていて、バーチャルな世界にも違和感なく没入している。これからさらにバーチャルな世界は広がり、買い物もライブも出会いも、画面の中で楽しむことが主流になるのかもしれない。この辺りの楽しみ方は子どもや大人関係なく個人の価値観の問題なので、自分の子どもたちがそのような世界を楽しむことを否定することはできないのだが、個人的にはリアルな世界での体験の方に楽しみを感じるので、リアルな世界での体験ばかり誘ってしまう。なので、タブレットの画面ばかり見ていた子どもたちから外遊びに誘われるととっても嬉しいし、唐突に台所に立ち、謎のドリンクやお菓子を作ろうとしている姿を見れば過剰に誉めてしまう。自分の考え方ももっと柔軟にしなきゃなあと思いつつ、現実世界でイキイキしているたくさんの子どもたちを見ることが幸せで仕方ない。
数百枚の印刷した写真を一枚一枚アルバムに入れながら、この束を見て我が子たちはどう感じるんだろうか、興味を持つんだろうかと考える。平成にレトロがつく時代。写真という物体も“レトロ”で“かわいい”ものになっていくのかもしれないし、かわいいものとして愛着を持ってくれるならそれでいい。
まだ我が子たちが通う学校では、自分の生い立ちを辿る授業の中で印刷した写真を持ってくることになっているため、全く触れたことがないという子はいないのだが、勿論この授業もデジタル化されていくだろうし、生い立ちを辿るという画一的な内容自体存在し続けるとは思えない。学校教育が実生活におけるデジタル化を超えることは想像できないが、子どもたちが生きる社会を考えるともっと実生活に近づいていくべきなんだろうなと思う。
バーチャルな世界での娯楽は普及しつつあるが、リアルな世界での体験は無くなることはなく、むしろその価値は高まるように思う。どちらも名前としては同じ体験でも、そこで得られる満足感は異なるものがあり、その選択肢は無限に広がっていくのだろう。こりゃもっと頭をほぐして、視野を広げていかないと損だな。
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